人間は海辺で進化してきた水棲動物
関 邦博
せき・くにひろ
神奈川大学理学部教授。1944年生まれ。神奈川大学卒業。フランス、エセックス・マルセイユ大学理学部卒業、同大学院修了。理学博士。海洋科学技術センター 研究副主幹、同調査役、神奈川大学理学部助教授を経て現在、教授。潜水学、高圧生理学、海中居住学、生理人類学、環境生理学などが関心領域。1991年、水中のノーベル賞と呼ばれる国際水中科学技術アカデミー第33回「トライデント金賞」受賞。著書に「海中世界に挑む」、「潜水学」、「高圧生理学」「海中居住学」など多数がある。 |
モーガン女史は、「人は海辺で進化した」という著書の中で人間の進化の姿を示す最近の科学的データから次のような仮説を提唱している。人間の祖先といわれる類人猿が、今から2000万年前の第三紀中新世の気温温暖な時代に繁殖していた。その中のごく一部の種が人間への進化をたどって来た。1900万年前から400万年前の間に、これらの類人猿のある種が森林地帯から温暖でしかも開放的なサバンナ地帯へと移動し、しだいに二足歩行の姿をとるようになった。われわれの祖先は、森林を捨てたあと直接サバンナの大平原に移らず、数百万年間は、水の中で遊び暮していたのであろう。人間が水中で棲んでいた幾つかの証拠が、最近の研究で明らかにされた。人間の新生児は、出産直後からうまく泳げるという。1960年代にモスクワの産婦人科医イゴール・ツァルコスキー博士が水中で出産する方法を開発した。その結果、母親の母体にとって良い効果があることが判った。思わぬ副産物があった。新生児は、脂肪組織が多く、水中では浮力があり、水面に浮き上がり腕で水をかく反射が強くあらわれる。ツァルコフスキー博士自身の3ケ月目の娘は、水中に潜り、息を止め、冷静で、目をぱっちり開け周囲を見つめ、もがいたり怖がったりする様子もなく、水に潜るのが得意になり、すぐ3分以上も潜っていることができるようになった。古代の水棲の人間は、海の魚介類を自分の子供達に食べさせたりする時、水の中では子供を腕以外のどこかで子供をつなぎとめておかなでればならなかった。この命綱の代わりとして母親の長い髪の毛が利用されてのであろう。人間の場合、顔に水をつけると浸水反射が起こり、心拍数は減少する(毎分30〜50回)。この浸水反射を保持する海洋性哺乳動物であるクジラやアザラシ等の仲間にみられ、陸棲哺乳動物には見られない。体毛が熱や寒さに対して保温性を示すのは、空気で乾いている時である。ぬれてしまうと保温効果のない空気の層がなくなるので、毛があることはかえってマイナスに働くことになる。そのため、クジラ・イルカ・アザラシ・ヒトには、体毛がなくなってしまった。水棲哺乳動物は、頭と脊髄と後肢が一直線に並ぶ、この姿が泳ぐのに最も効率がよい。人類の祖先が2足という姿を取るのは、水中においては垂直の姿勢で浮いていた方が楽でしかも疲れにくいからであったという。
音声によるコミュニケーションの発達

新生児のプールでの水泳
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われわれ人間と類人猿が違った進化をして来たのは、進化の過程で水棲生活があったからである。それは、より大きな頭脳を発達させたり、また、水中で息を止めることを覚えた。その結果、喉頭を駆動させる気道を意識的に制御する能力を身につけることができた。類人猿と人間は、構造上の違いはそんなにないが、彼らは話すことができない。それは、陸棲動物のように視覚や嗅覚で互いに容易に認知する陸棲環境とは異なり、水棲動物は認知するのが困難な水中という環境に棲んでいる。そのため、音声によるコミュニケーションを高度に発達させたのである。クジラやイルカ・シャチ等は、音を発してその反射映像で物を見ることができるのも一つの証拠である。地質学的には、新生代の間、一時的に、今の海面よりも200mほど海面が上昇した時があったという。この時、それまで森林に棲んでいた昔の類人猿は食糧がなくなった。そのため、しかたなく食べ物を変えざるを得なくなり、海の中に食糧を求めるようになったのであろう。こうした海面の上昇下降は、新生代のほとんど全期間にわたって行ったという。そして今から400万年前に、水棲人間はようやく海から陸上の生活をするようになった。この温暖な、乾燥した気候の到来とともに陸で棲むようになった。今から1900万年前から400万年の間に棲んでいたといわれる私達人類の祖先であるホモ・アクエリアス(水棲人類)の化石が近い将来人類学者によって発掘されるかも判らない。この水棲人類についての化石が今だ見つかっていないのも、人類の進化にとって一つの謎であるかも知れない。
閉息潜水における科学技術の進歩
モーガン女史の仮説を裏付ける人間の水棲能力を発揮させる研究成果が次々と発表されている。私たち人間は、陸にしか棲めない哺乳動物であるが、古代から閉息潜水(素潜り)を行い海や湖などから様々な貝や海藻を食糧として採取し生活の糧として来たのは古代の遺跡調査から明らかにされている。閉息潜水を行うダイバーにとって、可能な限り深く、長く、潜水することは、古代も現在も変わることのない夢である。閉息潜水の可能性としては、従来、閉息潜水時間は最大で3分、到達可能な水深が40メートルであると考えられていたのに対して、近年この面の潜水生理学の研究が飛躍的に進歩している。呼吸法や潜水訓練によって潜水深度が大幅に更新されるようになった。例へば、陸上で純酸素呼吸を30分間行った後、閉息潜水を行うと13分間も潜水できることが既に1950年頃に報告されている。また、フランス人のジャック・マイヨールは、1983年10月、イタリアのエルバ島沖合いでヨガの呼吸法を取り入れて、水深105メートルの閉息潜水に成功した。その後1996年9月16日には、マイヨールの弟子ウンベルト・ペリッツァーリは130メートルの閉息潜水に成功している。彼らは、最新の科学知識の裏付けの基に、この閉息潜水を行っている。この実験を安全に遂行するために支援ダイバーと研究者を含め28人がチーム参加し1回の実験に約3000万円の費用がかかる実験を彼らは毎年のように実施している。今後、この閉息潜水の科学技術が進歩すると、人間もクジラやイルカやアザラシのような他の水棲哺乳類のように、海中を自由に散歩できるようになる。しかもこの潜水方法の特徴は、潜水コストが安く、潜水障害にもかかりにくいことである。また、スキューバダイビングのように高圧空気を使用した環境圧潜水は、20世紀の初めまで、潜水障害(減圧障害、窒素酔い、二酸化炭素中毒、酸素欠乏、酸素中毒、肺過圧障害など)の克服が困難であったことや、潜水装置の開発が不十分だったため、深度90メートル近くまで潜るのがやっとであった。
環境圧潜水における液体呼吸の可能性

水深520m相当圧下の水中で水素、ヘリウム、酸素の混合ガスを呼吸して作業するダイバー
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しかし人間は、20世紀の中ごろから精力的に研究を行い、また2回に及ぶ世界大戦を経て、徐々にではあるが潜水障害のメカニズムを解明し、それに対処する方法を開発して来た。その結果1992年には、フランスの深海潜水作業会社COMXのダイバーは世界で最も深い圧力下の深度701メートル相当圧の高圧環境下で水素・ヘリウム・酸素の混合ガス呼吸により作業できることを実証した。このように、飛躍的に発達しつつある環境圧潜水の科学技術は、今日、史上最大の産業である海底石油開発の分野において応用されている。映画『アビス』の中にも登場して話題になった液体呼吸は、哺乳類の肺のガス交換は、ガスの状態だけではなく液体を媒体として用いても可能なことが、100年ほど前に新生児の研究によりある程度解明されていた。しかし実際に哺乳類に液体を呼吸させるのに成功したのは、1962年オランダの生理学者であるキストラ教授であった。この実験では、生理食塩水の中に高分圧の酸素を溶解させたのちこの溶液にラットやマウスを水没させ18時間もの間液体呼吸を行い生存させることに成功したのである。その後の研究により、生理食塩水では二酸化炭素などの不活性ガスの除去が不十分なことが判明し、これに代わりフッ素と炭素からなるフルオロカーボン液が用いられ、マウス・ラット・イヌ・人間に実験が実施され成功をおさめている。現在はまだ実用段階には至っていないが、スウェーデン・アメリカ・フランスなどを中心に研究が進められている。近い将来、この液体呼吸が環境圧潜水の分野で実用化されれば、人間が魚のように自由に海中を泳ぐことも、また深海に潜水することも可能となる。この潜水方法の利点は、加圧・減圧時間が著しく短縮できることにある。今後、人間はさらに深い深度においてダイバーによる海中作業が出来る潜水技術の開発を行っていくであろう。
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