写真集「ニッポンの犬」撮影エピソード

写真集名:

ニッポンの犬

発行日:1998年10月19日 第1版
発行所:株式会社 平凡社

日本には、日本犬がいます。日本犬は日本人とともに日本列島で約1万年前から暮らしており、地球上に数ある品種のうちでも、原種に最も近いタイプのイヌのひとつだといわれます。この写真集は、天然記念物に指定されている秋田犬、甲斐犬、紀州犬、柴犬、北海道犬、四国犬の日本犬6犬種を、それぞれの故郷で撮影したものです。僕が日本犬を撮影しようと思い立ったのは、小淵沢に住んでいたときのこと。富士山を背景に洋犬が飼い主に連れられて散歩している姿を目にしたのですが、富士山と洋犬の取り合わせは、どことなく違和感を感じました。数日後、今度は富士山を背景に柴犬が歩いているのを見ました。その光景は、見事にマッチしていました。日本犬は、日本の風土が育てたんだなぁ。そんな感慨をもった僕は、日本犬6犬種の故郷を巡る撮影取材に出かけました。

南紀白浜で出会った、紀州犬。子イヌたちは好奇心いっぱいに動き回る。

白い砂浜が続く和歌山県(紀州)の南紀白浜で、紀州犬の子イヌを撮影しました。生まれてまだ1ヵ月ぐらいで、よちよちした動きですが、片時もじっとしていません。2頭がじゃれあっていたかと思うと、1頭はこっち、1頭はあっちへと、好奇心いっぱいによく動きます。そのたびにご主人が子イヌを追いかけて走り回り、抱きかかえて連れ戻してくれます。
紀州犬は紀伊半島一帯で古くから、イノシシやシカを捕る猟犬として活躍してきました。昔は胡麻毛や赤毛のイヌもいましたが、いまではほとんど、この子イヌのように白毛です。ほとんどの日本犬は尻尾をくるりと巻いた巻尾ですが、紀州犬は巻かずに尾が背の上でピンと上がった差し尾のイヌが多く、独特の趣きを感じます。

石鎚山脈の麓で撮影した、四国犬。眼光鋭く、野性的な顔立ちが印象的だ。

高知県(土佐)と愛媛県(伊予)の県境にそびえる石鎚山脈。この一帯で猟犬として育てられたのが四国犬で、土佐犬とも呼ばれます。モデルになってくれた四国犬は、ご主人のクルマから降りた途端、一目散に駆け出し、アッという間に姿が見えなくなってしまいました。どこに行ってしまったのかと僕は焦りました。ところが、ご主人がイヌの名前を呼ぶと、フルスピードで戻ってきたのです。さすが、猟犬の血が流れているなぁ、と感心しました。
四国犬の体つきは精悍で、キレのよい足さばきで俊敏に疾走。三角形に隈取りされた目には底力があり、動くものがあれば眼光鋭く集中して見極めようとします。発散する緊張感には、あたりを払う気迫を感じます。四国犬には野性的な魅力が凝縮されているように思います。

小樽の雪原を駆け回る、北海道犬。寒さなどものともしない。

北海道犬は俗称アイヌ犬とも呼ばれます。かつてアイヌ民族の部落には固有の在来種のイヌたちがいて、アイヌの暮らしを維持する狩猟を支えてきました。ことにヒグマ猟では、風下からヒグマの臭いを嗅ぎ分け、深雪を進み、川を渡り、見つけると取り囲んで猛然と吠え、主人がヒグマを仕留めるまで果敢に攻めかかったといいます。この狩猟の血を伝えるのが、北海道犬です。厳寒を生き抜くために、被毛は厚く、下毛には綿毛が密生。頰は張り、胸は豊かで、四肢のバランスよく軽快に雪原を走ります。
小樽の雪原で撮影した北海道犬たちは元気いっぱい。ご主人がリードを放すと、雪がうれしくてたまらないように跳び回ります。イヌたちは追いかけては、追いかけられる。動きは鋭く、遊びには真剣に熱中します。こうした遊びのなかで、猟の技が磨かれているに違いありません。

河口湖畔で苦労して撮影した、柴犬。これぞニッポンの犬、という風格を見せてくれた。

柴犬の産地は中部山岳地帯。僕は柴犬の撮影はぜひ富士山とサクラを背景にしたいと思い、富士五湖のひとつである河口湖で撮ることにしました。富士山が美しい陰影を見せてくれるのは、朝8時ぐらいまで。僕はモデルになってくれる柴犬とご主人と一緒に、早朝暗いうちに河口湖畔に出かけました。ところが、なんと、河口湖の周囲は富士山を撮影するアマチュアカメラマンでいっぱい。絶好の撮影ポジションは、人で埋め尽くされています。撮影場所を求めて移動するうちに、とうとう河口湖を一周してしまいました。そしてやっと見つけた人のいない場所が、うっかりすると足を滑らせそうな急斜面。でも、ここで撮影するしかありません。僕は柴犬をここに招きました。柴犬は前足をピンと伸ばして、急斜面で踏ん張っています。ご主人を見ると、70代のご主人も同じように足を踏ん張らせています。僕も足を踏ん張らせながら、富士山とサクラの枝が入るように、ローアングルで柴犬を狙いました。ファインダーをのぞいた僕は、背筋がゾクゾクしました。柴犬はこれこそニッポンの犬、という凛々しい威厳をたたえていました。僕は写真集『ニッポンの犬』の表紙に、躊躇することなくこの写真を選びました。