米谷美久が語る開発秘話 セミオリンパスI~ペン、ペンFシリーズ

写真が好きな道楽息子が
カメラを仕事にするとは思えなかったが…

フィロソフィーの原点となったのは、若い頃の私の生活信条に根ざしています。プライベートな話になりますが、私の原点になる部分なので、少し触れさせていただきます。写真がとても好きな、道楽息子でした。醤油を造っていた四国の実家には、ライカ「III f」があったので、勝手に引っ張り出して使っていました。中学の後半から高校の間ずっと写真を撮ることに熱中していました。学校の先生の紹介で、街の写真クラブに入っていました。たった6人しかいない、道楽息子の集団ですよ。持っているカメラは5台がライカ「III f」、ローライスフレックスが1台。当時のライカ「III f」といったら、19万円くらいしました。その頃の公務員の平均月給は7千円くらいですからね。だけど、そういう道楽息子集団のわりには大変レベルが高くて、その6人のうちの誰かの名前が毎月必ずどこかのカメラ雑誌に載っていました。100mmレンズで遠くから撮影したり、28mmでバーッと近づいた写真だったり。おかげさまで、賞金稼ぎもできました(笑)。

写真が好きではありましたが、この世界に入る気はなかったんです。というのは、やっぱり難しいし厳しい。写真で将来食べていけるのかは疑問でした。だから職業は別と考えていました。あくまでも趣味だから楽しいんだと割り切っていたんです。私が学んだ早稲田大学には精密機械の科目はなく、私は自動車を勉強の対象として選びました。エンジン、今でいうターボエンジンの基礎研究をしました。これが順風満帆の道になるはずだったんです。ところが、明けても暮れても写真を撮っていて、このままでいいのかと思っていました。するとたまたま学生時代に出願したカメラの特許が、オリンパスのカメラの創始者である櫻井の目にとまって、「ウチへ、来い」ということになったんです。当時は、最初に採用通知を出してくれた会社に行かないと、学校の面子が保てないというので、すでに受け取っていた自動車会社からの採用通知は来ていないものとしてオリンパスへ行くことにしました。そんないきさつがございました。

もともと写真を撮るのが大好きだからといって、なぜカメラ設計に携わることになったのか。そのきっかけは、持っていたライカ「III f」が決して万能ではなかったからです。花を撮ろうとしても撮れないのです。ある範囲内なら撮影可能でも、決して万能ではない。そして、撮れない対象があると、撮れるカメラをユーザーとして探していました。だけどどこへ行っても見つからないと、これは自分で作るしかないと考えるようになりました。とはいえ、高価なライカをいじるわけにはいかず、昔の「マイクロカメラ」というのを6、7台買ってきて改造したりしていました。

2年間の工場実習の後に
カメラ設計の取組みが始まる

オリンパスに入ってどうするか…、写真を撮るのが目的だということは変わりませんでした。カメラを磨くことに喜びを感じたり、カメラを見ることに喜びを感じることもいいじゃないですか。私はいい写真を撮ることが原点なんですよ。いい写真が撮れるカメラがあれば買うし、なければ自分で作ってしまう。こんな自分が、オリンパスに入ったのはよかった。のちのちそう思うようになりました(笑)。

最初の頃は、新人なのにとても生意気でした。賞を得たこともあって、一人前の顔をしていましたからね。しかし、設計に関してはまったくのド素人。先輩が図面を目にして、これは大変だと言うくらいでした。大学でも図面を描いたことはあったのですが、その厳しさは知りませんよ。2年間、工場実習へ出されました。工場に籍を置きながら、半年ごとにいろんな職場を回り、2年後に設計に戻ってきました。ところが、忙しい先輩のもとへ新人が戻ってきても、その面倒なんか大変で見ていられなかったんですね。先輩は難しいテーマを与えて、ひとりで勉強させようと「なんか設計してみろ」というわけです。

自分なりにいろいろ考えていくと、ひとつの問題に気づかされました。当時、オリンパスの一番安いカメラが23,000円くらいでした。これでは初任給15,200円の1.5か月分。カメラが高すぎるんです。せめて月給の半分で買えるもの、当時の自分の給料の半分、6,000円のカメラを作ろうと思いました。この考えには先輩も同意してくれました。安売りが常の今日でも、その半値ということになると、どこかに傷があるのではないかと気になりますよね。だけど4分の1だったらどうですか?そんな値段なんてありえないですからね。先輩たちからも「6,000円でいこう」といわれて、結局、自分の首を自分で締めるような提案をしてしまったわけです。

写真の出来もレンズも、ライカの
カレベルにこだわって「Dズイコー」が誕生

写真展にはいつもライカで撮った写真を出していましたが、面白いもので、ライカで構えて撮ったものよりも、サブカメラとして持っていた自分で設計したカメラで撮った写真の方が、気楽に撮るからなんでしょうね、いいものが多かった。ライカで撮って伸ばした写真と、自分が設計したカメラで撮った写真を引き伸ばしたとき(現像したとき)、自分の設計した方がピントが悪いと悔しい。せめてできあがった写真は対等であってほしい、と思うわけです。

レンズもライカのテッサータイプのレベルにこだわりました。ハーフサイズは、画面が小さいので、それだけ引き伸ばし倍率が大きくなるわけですから、当然レンズへの要求が大きくなる。なので、ライカで使っているテッサータイプに負けないものを作ろうということになる。当時からレンズ設計部門がありましたから、そこに頼みにいったんです。ライカのテッサータイプに負けない最高のレンズがほしいんだと。そうしたら、設計担当の主任がこんな話は初めてだという。だいたい、コストをいくらに抑えてほしいとか、その値段内で最良のものをと頼まれるのが当たり前なんだそうです。ところが私の場合は、値段などをいわずに、とにかくライカに負けないいいレンズを作ってほしいというだけですからね。レンズ設計者も喜んで「よーし引き受けた」と。これが名レンズ「Dズイコー」のもとでした。本当に素晴らしいレンズを作ってくれたんです。

とはいっても、ライカの20万円もするカメラに対して、かたや6,000円のカメラですよ。競争しようがありません。レンズに金をかけてしまったので、あとはお金をかけられなくなってしまった。上司もレンズにコストをかけすぎだと心配してくれるけど、クレームをつける人は誰もいなかった。なぜなら、勉強用のカメラでしたから、大変だろうとはいっても、それから先は知ったこっちゃないわけです(笑)。おかげで最高のレンズはできたのですが、もう、これ以上カメラにお金はかけられなくなりました。